電子機器にはスペックがあります。そして技術の進歩とコスト削減により、どんどん高性能のモノが安く手に入るようになっています。さらに日本という国はあるときから「全部詰め」「何でも出来る」ことが素晴らしい、とばかりにそれらの機器に多くの機能を詰め込んできました。
お財布の代わりになります。スケジュールも確認できます。住所録の代わりになります。ネットも見られます。自宅の家電を外からチェックできます。などなど。昔ありましたね。私の小学生の頃。電子手帳なるものが。懐かしい方いらっしゃると思いますが。
一瞬とても便利なのかもしれませんが、そして夢の機械のような気がするのですが、ふと冷静になって考えた時、とても疲れてしまっている自分がいることに時々気が付きます。
もっともっとを求めるあまり。
次から次へと欲望や、ハッキリしていないのにとりあえず便利だと思われることに、もっともっとと求めて行ってしまうんですね。
あれも出来る。これも出来る。これひとつあれば何でも出来る。
けれど最近思うんです。私が本当に意識を向けられることなんて、大した量じゃないんですよ。
私の中には器があって、その中に収まりきらなくなると途端に苦しくなってしまうんです。
機能の全部のせは確かに便利だけれど。
今私が愛用しているZenfone 5。これもなかなか優れたやつでして、その中でも私が特に便利だと感じる機能がKindleです。本が読めるんです。便利ですね。これは認めます。
あまり荷物を持ちたくない時には助かります。Zenfone一台でほぼ用足りますから。これは以前のiPhone 6 Plusの時も同じでした。
ただ、時々Kindleで読みたくなる時があるんです。それはアプリではなく、Kindle端末で、です。我が家にあるのはPaperwhiteの2013年版です。
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これ、なぜだろう、と考えた時に、以前も書いたことがありますが「だけ出来る」というのがすごく気持ちを楽にしてくれるんです。
「だけ出来る」は他は何も出来ないんですよ。これ、同じく愛用しているKING JIMのポメラも同じです。
スマホで本を読んでいると。
時々本の世界に入り込めなくなります。あ、あれ忘れてた。これ調べないと。メール来てるかな。注意力が散漫です。なぜなら、それらが同じ端末上で気軽に切り替えられるから。タップ一つで簡単に他のことが出来てしまう。
本を読んでいると、時には浸っている時もあれば、そこから新たな刺激が生まれることもある。それらを確かに掬い上げることも必要なのだけれど、あれも出来てこれも出来てしまうと、落ち着かなくなってしまうんです。
画面の切り替えがフワッとしているから。
これ、よくマイナスポイントとして挙げられることが多いですが、悪く無いですよ。E-Inkの切り替えの関係で、すぐに切り替わらず、画面がフワッと次のページに切り替わる。でも、のんびり浸る読書のスピードにはこれくらいがちょうど良いんです。そして、スマホの画面を見ていると、いつもの他の作業とまったく同じ画面を見ているわけで気持ちの切り替えがあまりないのですが、Kindle Paperwhiteを見つめている間は、明らかに本を読んでいるんですね。
勿論使い勝手の悪さも無くはないです。
気になった語句や文章をハイライトさせたい時、反応が悪かったり、なかなかうまくいかないこともある。そして、Paperwhiteだとハイライトした部分全てを保存しきれません。ファイル容量の関係なのかな。
けれど、そうした細かい使い勝手は別とすれば、バッテリーは持つし、目の負担は軽いし、大きさは手頃だし、何よりこれだけ持って出歩けば、紙の本を数冊持って出かける時と同じ気分なんですね。そしてやはりスマホで延々と読んでいる姿は、本人は本を読んでいても周りからいるとスマホ依存症みたいなもんです。Kindle端末であれば、まったく興味のない人にとっては同じですが、少なくともスマホほどスマホ感がありません。
「だけ出来る」で生き残っているのは凄いこと。
どれだけ技術が進んでも、「だけ出来る」の分野で生き残れているというのは凄いことだと思います。それはその機能に特化させたものを欲しい層が必ずいるから。そしてそうした層にしっかり揉まれてブラッシュアップされながらも、基本的なスタンスを崩すことはないから。それが定番の強みにもなってきます。一般的な意味での定番とは少し位置づけが違いますが。
できる事を絞るというのは勇気の要ることだけれど、その分とても心も身体も軽くなります。今もKindle Paperwhiteは私の愛用ツールの一つです。