年に数回、コンスタントに訪れている宮城県石巻市。ただ、今までは主に夏でした。今回初めて14日夜~16日朝(往復は夜行バス)で1月の石巻を訪れました。
普段は畑仕事の手伝いなのですが、冬のため今回は毎週金曜日に行っている仮設住宅での弁当や野菜の販売の手伝い&休暇を兼ねて、です。震災から約5年、仮設住宅を訪れて改めて感じたことなど、簡単にご報告します。
現在も100世帯以上が生活している、仮設にっこりサンパーク団地。
普段はこの近くで仮設のお母さんたちの農業支援等を行っている新古里(にっこり)農園で畑仕事、農作業の手伝いをしてくるのですが、冬の間は作業も少なく、その代わりに採れた野菜や、そこで作った総菜、弁当を上の仮設にっこりサンパーク団地に持っていって販売しているそうです。
この日は寒かったこともあり、みなさん外から出ないようで売れ行きはイマイチだったようですが、それでも私たちが到着する時間帯には既に仮設住宅の方が何名も待たれていました。
現在も100世帯以上が生活する仮設住宅。
震災から間もなく5年になりますが、現在も100世帯以上が生活をされているそうです。勿論中には新しく家を建ててそちらに移り住んでいる方、この春には移る予定の方などもいて、だいぶ当初に比べれば減ってきてはいるそうです。
すぐ上の山を切り崩して宅地造成工事を行っているようで、こちらに既に家を建てる予定の方もいらっしゃいました。
震災、津波で既に縁が切れてしまった中で、元いた場所に戻るということ。
勿論仮設に生活し続けることが良いことではないとは思うのですが、ここでお話を聞いていて印象に残っていたことがあります。たとえば実際に以前に暮らしていた集落などに既に高齢になってしまったご夫婦が戻ったとしても、それはそれで不安や悩み、問題も多いそうです。
というのも、この仮設住宅に暮らしている限り、例えば体調を崩しても壁一つ隔てた隣や前に誰かしら見知った顔の人が生活してくれているので、「あそこのじいちゃんは今日寝込んでるから代わりに買い物しといてやろう」「今日は総菜持って行ってやろう」といったことがお互いに出来ます。
けれど、(勿論元いた家に戻れるのは素晴らしい事なのですが)仮設から一歩離れてしまうと事はそう簡単なことでもありません。
実際に元の集落に戻った老夫婦は完全に孤立した場所に一軒だけ建つ家に住んでいます。隣の家とは山道を歩いて150メートルも先にあるような場所だそうです。そしてご主人は既に認知の初期とのことで、例えば朝、奥さんが農作業に出ている間にフラフラと家から出てしまった場合、大げさではなく総動員して山狩りでもしないと見つからない可能性もあるとのこと。また、ご夫婦二人の体調に異変があっても、近くに誰も住んでいないので当分誰も気付かない、という恐れもあるそうです。
最初は5年経ってもまだ100世帯以上仮設住宅に暮らしていることが気になったけれど。
最初は単純に元々130世帯程度が暮らしていた仮設住宅に今暮らしているのが100世帯、ということが気になりました。このペースではあと3年後、5年後にも状況は変わらないのではないか。よく「あの震災を忘れない」なんて言っているけれど、年月が経つにつれて人は忘れていきます。まだ仮設で生活している人がいること自体、多くの人は忘れてしまっているかもしれません。
そんな中で、これから先、何年仮設暮らしが続いていくのか。
けれど、津波で全てが流されてしまった中で、5年が経つと仮設暮らしが日常なのか非日常なのか分からなくなってきます。勿論それが良いと言えることではないのですが、では単に家が建てばそれで全ては解決するか、といえばそう簡単な問題でもない。既に散らばってしまった集落の人々の縁は切れてしまっていたり、いざ何もなくなってしまった土地に高齢の方ばかり、どう生活していくのか、という問題もあります。
復興って何だろうね。
中には一年半前に訪れた時には閑散としていたのに、最近非常に頑張って情報も発信して少しずつ活気が出てきている「南三陸さんさん商店街」のような例もあります。
[0280-201407] 南三陸さんさん商店街で被災地支援について考えた。
ただ、なかなか全ての街がこのように復興していくとは限りません。
これから先、この北上町がどうなっていくのか。現地で今も活動している妻の友人の話を聞きながら、今回も私は何も出来ず、ただ美味しいご飯を食べて帰ってきただけでした。