[日用品] 高級時計ばかり見ていた20代、父親の吊しの数千円のデジタルの腕時計に複雑な感情を抱いていた。

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[日用品] 高級時計ばかり見ていた20代、父親の吊しの数千円のデジタルの腕時計に複雑な感情を抱いていた。

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目が覚めたら通知がそこそこ来ていて知ったこちらのポスト。

この書籍を出してもう5年以上経っていますし、ブログも最近は革靴関連の発信が出来ておらず、自分の中でも「何とかまた発信していきたい」と思いながらも出来ずにいるもどかしさを感じていたところだったので、とても嬉しかったです。

ペニーワイズ@montblancner)さん、ありがとうございます。

今でも時々お問い合わせフォームから革靴や腕時計、スーツの相談などを頂くこともあり、嬉しく思っています。今後はもう少しこちらも発信していきたいと思っています。

で、今日は久しぶり、ということで、ちょっと私の昔話を聞いてください。

腕時計に関する話なのですが、これって多分モノ全般、趣味全般に結構当てはまることかなぁ、と思ったので。

高級時計ばかり見ていた20代、父親の吊しの数千円のデジタルの腕時計に複雑な感情を抱いていた。

高い時計にも安い時計にもそれぞれに良さがある。
けれど人はあるとき、それを忘れ価格だけで全てを評価してしまうこともある。

いや、ほんとこの見出しだけで叩かれそうな気もするのですが、当時私はそこそこの価格から本当に数千万円までの高級腕時計を扱う店舗で働いていました。日々色々な腕時計を扱ってきたし、サラッと数千万の時計を買っていくお客様も見てきたんですね。

と同時に、このブログを以前から読まれていた方であれば、私が当時「ジョンロブ」と呼ばれていたくらいに、高級革靴にハマっていた時期でもあることもご存知かと思います。

元ネタは他にあるようですが、日本が世界に誇る時計ジャーナリスト広田雅将(@HIROTA_Masayuki)さんのツイートを見まして、最近靴に関して漠然と思っていたことを文章にしてみようと思いました。 ...

で、この頃は結構マメに帰省していまして、当時、今の私の年齢よりももう5〜8歳くらい上かな?くらい、だった父親ともよく話をしていたんです。もちろん父は私が腕時計店で働いていること、腕時計が好きなことは知っているので、腕時計の話をしてくるわけです。

そんなある日、父は自分が毎日愛用している腕時計のことを本当に嬉しそうに話してくれました。多分そんな腕時計マニアになっていた息子との共通の話題だと思って振ってきたのだと思います。

当時銀行員で副支店長を経てちょうど本店の審査とか監査とかその辺りの部署で働いていた頃だと思うのですが、そんな父親が日々愛用していた腕時計が、

家電量販店でたまたま見かけたデジタルの数千円の腕時計

だったんです。それもチープカシオとかそういう今ではある意味「外しててカッコいい」とか「却ってそういう人のほうが素敵」みたいな空気もなかった時期です。で、チープカシオでもなく、吊るしの数千円のどこのメーカー製かも分からない腕時計でした。

この腕時計、本当に良いんだよ。夜、目が覚めてもライトが付くからすぐ時間が分かるし、アラームも付いてるから寝過ごすこともない

嬉しそうに話す父は、家にいるときも、寝るときも、肌身放さず腕にしていました。

でもその時の私は、恥ずかしながら、なんとなく寂しいというか、悲しい目で見てしまっていたのです。

銀行員としてそれなりの役職にも就いている50代の男性なのに、腕にしてるのがこの時計なんて‥

突っ込まれる前に言っておくと、今思えば非常に恥ずかしい、情けない考え方なんです。

でも、当時腕時計店で働いていて、自分もそれなりに高い腕時計をしていて、知識もあったと思っていた私は、そんな父(尊敬していましたし)には、父にふさわしい(と私が勝手に思い込んでいた)それなりにしっかりした腕時計をしてほしいと思ってしまったんですね。

流石に数百万超えの雲上時計は銀行員としてふさわしくないので省くとしても、例えばグランドセイコーとか。そこまで行かなくても質実剛健なそれなりの価格のする時計こそが父にふさわしい、と思っていたのです。もちろん口にはしませんでしたが。

そしてある時、父の日だったか誕生日だったか、に、それなりの価格の時計を父に贈りました。父は喜んで腕にしてくれていましたが、それ以降、帰省しても普段から腕にしている姿を見ることはありませんでした

一応息子のいる前ではなるべく着けてくれてはいたのですが、以前のように寝るときも、自宅でも、常に時計を腕にしているという姿を見ることはなくなってしまいました。出張先では恐らく今まで通りのデジタルウォッチを使っていたのだと思います。

何故か。今思えば分かるんですね。その使い古されたデジタルウォッチは、父の手首に常にあり、父の仕事を支えてくれる相棒だったんです。

元々朝が強くない中で、年中様々な支店に審査、監査に行ったり宿泊も多い父にとって、一番役に立ち、父を助けてくれるのは、高級感でも落ち着いた雰囲気でも、質実剛健なイメージでもなく

「夜ストレスで目が覚めてしまうことが多い、眠りの浅い父にとって、腕元ですぐにライトが点いて時間が分かる

「朝もアラームで起こしてくれるから寝過ごさない」

「軽くて着けていることを苦痛にさせない

ことだったんです。

さて、父にとってのある意味での「一生物(この表現は正直好きじゃないけど)」「相棒時計」はどちらだったんでしょうか。

もちろん息子から贈られた腕時計にも思い入れはあったでしょう。価格もこちらのほうがはるかに上です。

でも思うのです。

息子、娘ともに実質2回ずつ大学に入れるだけの学費を払い、その後も散財放蕩息子に迷惑をかけ続けられ、病気の祖父のために家を建て直し、それでもそのすべてを引き受けて身を粉にして全国を駆け巡って働きに働いた父の腕にふさわしかったのは、父にとっての相棒は、あのデジタルウォッチだったと思うんです。

だから父は休みの日も、寝るときも、あの時計を腕にして愛用していたし、嬉しそうに話してくれたんです。

でも当時の私にとっては、世の「一生物」「鉄板時計」「ふさわしい時計」的な情報や知識が先行していた。いや、そういう考えに染まっていた。だから父が嬉しそうに話してくれたあの数千円の吊るしのデジタルウォッチに「えっ?」と思ってしまっていた。理解できなかった。

もしかしたら若干「恥ずかしい」とすら思っていたのかもしれません。

同様に父のくたびれた餃子靴にも同じように本人にしか分からない物語がある。

父は革製品が好きで(私が革製品や筆記具に興味を持ち始めたのも父の影響が大きい)したが、仕事用の革靴に関しては無頓着でした。

革靴好きが馬鹿にする餃子靴を履いていました。革靴マニアだった私は、それも「恥ずかしい」と思っていた

下には見ていなかったとは思うのですが、内心では「もっとちゃんとした靴履いて欲しいな」と思っていたと思います。

でも少し想像すれば分かるのです。

父は毎日その靴を履いて、取引先を廻り、足を棒にして歩いていた。金のかかる息子と娘を抱えながらも結局定年まで働き続けました。その足元を支えていたのは、あの餃子靴だったんです。

もしかしたら革製品好きの父親です。良い靴も欲しかったかもしれない。けれど家族を抱えていればそう気軽に買えるものでもない。何より当時の父親の年齢に近くなった今ならわかります。家族を持つことの、養うことの大変さを。

でもそんなとき、息子は革靴マニアで、身の丈に合わない何十万もする革靴を集め、帰省時にも履いてきて、前述のように餃子靴に複雑な想いを持っていた。それどころか世の餃子靴をバカにしていたと言ってもいい。

でも世の中の靴には、その人ごとの物語があるんです。歴史がある。背景がある。事情がある。

私たちマニアがやってしまいがちなこと。それは、特にその趣味に興味を持ち始めた初期よりも、むしろある程度知識も付いてきて、コレクションも増えてきた頃に起きます。

そのモノに興味がなく、無頓着でいる人をどこか見下してしまうこと。バカにしてしまうこと。嫌だな、と思ってしまうこと。

私たちマニアは知識が付き始めると、途端に他人に対して批評家になりたがる。他人にも考えを押し付けたがる。

父は今も実家で元気です。なのでもしかしたら何かの拍子に私のこの文章を見つけてしまうかもしれない。そう思うと物凄く恥ずかしくなるし、何よりそう息子に思われていた、ということを知られてしまうのは辛い

けれど、今なら思うのです。父のあのデジタルウォッチは父にとって最高の腕時計だった。どんな高級時計よりも私にとっては輝いて見えます

散々腕時計も買い漁ってきた、集めてきた私にはそんな腕時計があるのだろうか。

同様に父の餃子靴も、そんな父の人生を足元で支え続けてきた素晴らしい革靴でした。それは価格じゃない。デザインでもない。

同様に私にはそう思えるような革靴が今あるのだろうか。

もちろん安い高いという価格の問題ではありません。デジタルウォッチや餃子靴のほうが素晴らしい、という話でもありません。

父にもし話したら「いや、別にそんなつもりで使っても履いてもいなかったぞ。時計にも靴にも興味がなかっただけだ」とここまでの私の文章すべて台無しの返事が返ってくるかもしれません。

ただ、時々思うのです。私たちは知識がつけばつくほど、特に付きはじめの頃に多い気がするのですが、世の中のこと、他人の行動に憤りや苛立ちを感じがちです。なぜあんなボロボロの革靴を履いているんだ、雑に履いたり投げ捨てたりするんだ。なんであんな腕時計してるんだ。なんで‥なんで‥。

でも本当は「どーでもいいこと」だと思いませんか?

そう思うのなら、自分が大切にすれば良い。自分が好きな時計や革靴を選べば良い。他人に文句言う筋合いはないんです。でもネットを眺めていても、自分を振り返ってみても、特にある程度知識が付いてき始めた頃、趣味になってきた頃に、こういう傾向は起きがちです(そこを過ぎると「好きに選べばいいじゃん」となる)。

となると、こうして日々ブログで「お手入れしましょう」などと他人に余計なお節介の情報を発信している私は矛盾していることになると思うのですが、私もこのブログで発信してきていることは、強制しようとは思っていません。ただ、もし何か感じてもらえて、それをきっかけに興味を持ってもらえたら嬉しい。でも基本的には、

好きなように選べば、好きなように楽しめば良いと思うよ。いちいち人と比べないで、ね。

と思ってます。ただ、このブログも長いので、もしかしたら最初の頃に書いた文章はだいぶ攻撃的になっている気もしますが、それはごめんなさい。私の成長の過程、反面教師だと思って温かい目で見て頂けたら嬉しいです。

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高級時計ばかり見ていた20代、父親の吊しの数千円のデジタルの腕時計に複雑な感情を抱いていた。

同様に父のくたびれた餃子靴にも同じように本人にしか分からない物語がある。

私たちマニアは知識が付き始めると、途端に他人に対して批評家になりたがる。他人にも考えを押し付けたがる。

  • 高級時計ばかり見ていた20代、父親の吊しの数千円のデジタルの腕時計に複雑な感情を抱いていた。
  • 同様に父のくたびれた餃子靴にも同じように本人にしか分からない物語がある。
  • 私たちマニアは知識が付き始めると、途端に他人に対して批評家になりたがる。他人にも考えを押し付けたがる。