この一年ほど、ASUSのスマートフォンであるZenFoneを4台使ってきたことは何度も触れていますが、ASUSの最近の製品の一つのテーマが商品名にもあるZen(禅)です。
「Zen(禅)の思想」はASUSに限らず、Appleの故スティーブ・ジョブズでも有名ですが、振り返ってみると「禅の思想」自体よく知りませんが、どうも私はこの一般的な「Zen(禅)」的な商品が好きなようです。
最近好きな商品は大抵「何でもできる」高性能多機能なモノではなく、何かに特化させるために、中途半端なものは全て捨て去るような割り切りの良さのあるモノが多いのです。
その好みの原点は何処にあるのだろう、と自分の記憶を振り返ってみた時に印象に残っているのが1990年代~2000年代はじめに世界だけでなく日本でも人気のあったPDA端末の一つ、Palm(Palm PILOT)にたどり着きました。
そこで今回はPalmを象徴するデザイン思想でもある「Zen of Palm」について振り返りつつ、Zen(禅)的なモノや思想について考えてみたいと思います。
Palmの歴史と思想を、井上真花・山田達司「Palmクロニクル」で振り返る。
私がPalmに出会ったのはちょうど大学に入学した頃(1997年)。高校入学時にPC9801BX/U2を両親から贈られてからすっかりPCの虜になっていた私にとって、大学生活&1人暮らしは大切な学業よりもPCとその世界(ちょうどその頃Internetが普及し始めた時期と重なる)に一日中ハマり浸り続ける環境を与えられたようなものでした。
その時期にたまたまインターネットで見つけたのがこの手のひら端末Palmでした。
この辺りの話を語りはじめると際限なく脱線するので今回は触れませんが、その頃の世界と、特に日本におけるPDA、さらにPalmの歴史を「今」振り返る上で欠かせないのが今回取り上げる書籍「Palmクロニクル」です。なにせ当時を振り返りたくてもお世話になったサイトはほとんど姿を消してしまっていますので、本に頼るしかない。
そんなこの書籍の中で「Zen of Palm」について振り返ってみたいと思います。
「Zen of Palm(パーム禅、手のひらの禅)」
このPILOT誕生の過程で生み出された、手のひらサイズでの操作性・実用性を最重要視し、実際に試して使いにくい機能はばっさり削っていくという開発手法は”捨てる哲学”とも言われる「禅思想」に通じるところが多い。そのため、後にこのデザイン思想は、「Zen of Palm」(パーム禅、手のひらの禅)と名付けられることになった。
最近では「Zen」はかなり有名になりましたが、今振り返ってみてもこのPalmの設計思想は非常に素晴らしいものだったと思います。日本では後半は結局ソニーが孤軍奮闘するしかなく、CLIEを多機能、エンターテインメント化させていきましたが、そんな中でも私はシンプルな機能に特化させたCLIE PEG-TJ25が好きだったのは、余計なモノが付いていない、中途半端なものは削り、本来必要な機能のみを特化させて、その使いやすさを突き詰めていくものがPalmらしさだと感じていたからです。
今もまだソニーにページが残っていて少し感動。勿論TJ25がシンプルの極みだった訳では決してありませんが、当時のCLIEの中では非常にスッキリしたモデルだったと思います。
CLIEの完成形として評価も高かった名機TH55。今も探せばこうして当時のモデルは手に入るのですが、今手元にあっても果たして実用的かどうかは別。
「PDAの必要条件は”常時携帯”が可能なサイズ・重量と駆動時間を保つこと。その上で、快適な操作を妨げるような機能は、いかに便利でも追加すべきではない」となるだろう。現代は、オフィスや家庭に必ずパソコンがある時代である。もし、ポケットにフルスペックのコンピュータを詰め込んだとしても、その利用場面は限られるし、プロセッサの速度やバッテリ駆動時間がボトルネックになる。本当に重要な情報だけを整理・保存し、それをいつでも瞬時に引き出せる 「水先案内人(パイロット)」こそが、Palmの理想とする真のPDAの姿なのだ。他のPDAが高機能化、肥大化していく中、この「Zen of Palm」を胸に、Palmは独自の理想を求めて努力を続けることになる。
この書籍が出たのが2007年ですので、もう10年近く経つのですが、これだけ性能も技術も上がった現代においても、PCなど取り巻く環境は変わっても、結局人が求めることは大きくは変わらないのだと感じます。
人の行うことは、望むことは大した違いはないのに、どんどんそのスペックは肥大化し、様々な便利なアプリから機能までが生み出されます。そして未だに「重い」「不安定」といった悩みは消えず、そして日々発表される新製品のスペック表を見比べては一喜一憂するのです。
「なんでもできる」は「何もできない」のと同じ。
コンセプトが「シンプル」でわかりやすかったのも、ユーザーから支持された要因だろう。Palmは、パソコンとHotsyncで連携し、必要な機能を持ち 出すことに徹したPDAであった。Windows CEやザウルスは多機能であったが、まだPDAを持ち慣れていないユーザーにとって「なんでもできる」は「何もできない」のと同じ。「主な使用目的は予定管理、スケジュール管理、メモ、タスク管理の4点」と決められていれば、安心してそこからスタートすることができる、複雑な概念による煩雑な操作をユー ザーに要求することもなかった。Palmは、できることが非常に明確で、軽快な動作がセールスポイントとなっていた。このコンセプトが日本でも高い評価を得たわけだ。
この当時に比べると、たった10年~20年足らずでも夢のような進歩を遂げています。カメラの性能は上がり、家でも外でも気にせず通信が出来、気軽にSNSに投稿し、数え上げればキリがないほどあらゆることが出来ます。
けれど、時々とてもシンプルなものに惹かれるのは、単なる「昔は良かった」的感情に過ぎないのでしょうか。勿論当時のPalmが誰でも気軽に扱える簡単な端末だった訳ではありません。だからこそ普及もしなかったのでしょう。
けれど、今のスマホも決して扱いやすいとは言えません。そして、多くの人にとっての用途って本当に限られていると思うのです。けれど、これだけ多くの人が使う日用品になると、結局は「なんでもできる」ために複雑、高性能、多機能を求めざるを得なくなります。
そして、先ほども挙げたように、結局今も変わらず、気がつけば「重い」「不安定」「バッテリーが保たない」などなど、「不足」を感じ続けています。
決して最新の技術だけが快適さを提供するわけではない。
Palm OSは一部を除き最新の技術も利用しておらず、機能的に豊富でもない。しかし、貧弱なハードウェア上で快適に動作し、PDAだからこそ必要となる機能を実現しており、実用的なPDAを作るためのOSとしてはまさにその使命を果たしていることがわかる。
後半では日本におけるPalm普及の立役者でもある山田達司さんが、PalmをPalmたらしめていたOSについて書かれていますが、Palm OSを見続けてきた山田さんだからこそ分かるPalm OSの凄さと魅力が伝わってきます。
もちろん今、Palm OSと同じものが世に出ても恐らく大衆的には受け入れられることはないでしょう。ただ、この当時から考えられていたこうした思想は、形を変え色々な分野で活かされているのだと思います。
Zen of PalmはPalmに限った思想ではなく、元々そうしたZen(禅)的な思想というのは技術の進歩と共に常に求め続ける方向の一つであるのだと思います。
最近Palm的な匂いを感じるものの一つがPebble Smartwatch。
さて。最近ZenFoneとともに私がブログで取り上げることの多くなったモノの一つが、Pebble Smartwatchです。
[1138-201601] Pebble Watch、いいよね。この仄かに漂うチープ感と懐かしさは様々な感情を呼び起こします。
このスマートウォッチは一般的にはどうもApple Watchなどと同列には考えられていないようで、スマートウォッチのシェア、と言ったときにも「なかったこと」にされています。
ただ、そのコミュニティの広がり方と、その使用環境(日本語のローカライズが有志の手によって行われている、など)を取り巻く事情など、当時のPalmを日々ワクワクしながら使っていた時の感覚に近いものを感じさせてくれます。
私がPebble Smartwatchに惹かれる部分。
まだ買ってないので偉そうなことは言えませんが、このPebble Smartwatchも「なんでもできる」というよりも、スペックや質感だけ見れば「おもちゃ」です。
そして出来ることも限られている。ただ、その限られている機能は、実はスマートウォッチと呼ばれるものにとって本来は最も必要な機能なのではないか、と思うのです。
それがスマートフォンからの通知です。
勿論他のことも出来ますが、結局私が普段スマートウォッチに求めているものの最たるものは、Apple WatchであろうとAndroid Wearであろうと、スマホからの通知をしっかり受け取ってくれることなのです。
そこはきちんと出来るようにしつつ、バッテリーは1週間から10日保ちます。
やろうと思えば色々とカスタマイズのし甲斐はあるでしょうが、そこは趣味の領域。Pebble Smartwatchはその辺の可能性はPalm同様しっかり残しておきつつも、時計単体としては至ってシンプルです。それが良い。
先ほどPalmの思想でも挙げた「PDAの必要条件は”常時携帯”が可能なサイズ・重量と駆動時間を保つこと。その上で、快適な操作を妨げるような機能は、いかに便利でも追加すべきではない」と似たものを感じるのです。
意識していても、どんどん複雑多機能化していく世の中だからこそ、人はZen(禅)的なモノに惹かれるのかもしれません。
私は人気のミニマリストではありません。それはこのブログを見ても分かるとおり、シンプルを求めながらも常に情報からモノまで新しいモノや魅力的なモノ、定番まで幅広く惹かれ続けているからです。
何も考えなくても今の世の中は便利で、次々に快適なモノが生まれていきます。お金を出せば幾らでも手に入れることが出来ます。そうしたモノがどんどん身の回りに増え続け、苔蒸していきます。
そんな時に、ふと「ここまで要らないんじゃないか」「これで充分ではないか」と思う時が多々あります。そうしてまた削っていき、あるときは勢いよく捨て去っていきます。
結局また少し経つと苔蒸してしまうわけですが。
増やしては削り、また気がつくと増えていく。不毛なのではないか、と思うこともあります。
ただ、だからこそ、こうしたZen(禅)的なモノや思想に惹かれるのでもあり、惹かれることでバランスを保っているのかもしれません。
「Zen(禅)」というと、本来の禅の思想も知らずに何偉そうに言ってるんだ、と自分で突っ込みたくなるときもあるのですが、一つの流行に終わらず、これからも本来の禅と同様に長く続いていって欲しいと思っています。