衆議院議員選挙の投票日です。
と、一言で片付けてしまうくらい、今日の選挙のテーマは「衆議院議員」の選挙な訳ですが、実際には非常に大切な審査が毎回影で行われています。
ご存じ「最高裁判所裁判官国民審査」。
大半の「よく分からないからそのまま出した」とごく一部の「全員×にした」、残りが「一人一人しっかり考えた上で審査した」に分かれるのかな、というのが大方の印象かな、と思います。
このただでさえ関心が薄いと言われている選挙の中でもそれを上回るほどに存在感のない「最高裁判所裁判官国民審査」。けれどとても大切なことは薄々感じてはいると思うのです。
今回はそんな「最高裁判所裁判官国民審査」について、次回の衆議院議員選挙の投票日に向けた準備として改めて考えてみたいと思います。
分かりやすい「最高裁判所裁判官国民審査」
とても分かりやすい審査です。×をつけた人が有効投票の過半数だった場合は辞めさせられるのですから。これほどシンプルなものはありません。
分かりにくい「最高裁判所裁判官国民審査」
けれど、やり方が分かりにくい。人を強制的に辞めさせる訳ですから、敢えて分かりにくくしているのだと思いますが、投票以上に分かりにくい。
今回こちらのサイトで初めて知りました。
そして、(ほかではあまり書かれていませんが)国民投票は「棄権」することができます。その場合は投票用紙を受け取らないもしくは返却し、何も投じません。
【総選挙2014】総選挙と同時に行われる最高裁判所裁判官国民審査とは(ポリタス編集部) |ポリタス 「総選挙」から考える日本の未来
「棄権」という選択肢もあるのです。あるというより、「別に」ある。そのまま出すのは「辞めさせない」という意志表示なんです。けれど、そのまま出した人の半分くらいはもしかしたら「棄権」のつもりだったかもしれません。
もう一つ分かりにくいといえば、勿論「その裁判官がどんな判例を出したか」ですが、これについては国会議員だって「その議員が何をしたか」分かりにくいのは同じですから、格別裁判官審査だけが意地悪な訳ではありません。
やりやすい「最高裁判所裁判官国民審査」
これは投票(この場合審査)する私たちも、審査される側の最高裁判所にとってもやりやすい仕組みです。
一人一人調べるのは大変です。更に自分の意志を表明するのは大変です。エネルギーが要ります。ただでさえ衆議院議員選挙で誰に投票するかで忙しいのに、余計なエネルギーと時間を使いたくありません。
そう思う人にとっては、ただそのまま出してしまえば、とりあえず意志は表示したことになる訳で、辞めさせた、という後味の悪さも残りません。
反対に最高裁判所にとっても、とりあえず文句がなければそのままで良い訳です。しかも形上は「きちんと国民の審査を経ている、総意である」と言えるわけです。
これほど両者にとって「Win-Win」な関係はないかもしれません。
やりにくい「最高裁判所裁判官国民審査」
やりにくいです。これが一番大切です。あなたは人に意志を持って「×」を突きつけられますか?ある人の仕事ぶりを「×」出来ますか?
出来ません。私はなかなか出来ない。例えば私のこの記事やこのブログに対して「×」をつけるのは自由ですし、私もそれは仕方がないと思います。
けれど、それすら難しいかもしれない。「×」だと思う人は単にこのブログを見なければ良いだけで、去っていってしまえば良いからです。
敢えて「否定」して「止めさせたい」とまで思わせるのはなかなか大変です。
自分の仕事ぶりすら「○」と自信を持って言えるかどうか分からない、謙遜しがちな私たちにとって、他人の仕事ぶりに「×」という明確な意志表示をすることは難しい。
それでも「×」をつけるという行動は、余程の気持ちがなければ出来ないのです。
それをこの「最高裁判所裁判官国民審査」は求めているわけです。やりにくいです。
それぞれの裁判官の判例には、納得出来ない部分があったとしても
この「最高裁判所裁判官国民審査」を真剣に考えている方にとって、それぞれの視点があると思います。何をテーマに審査するかは人それぞれです。
ただ、考えてみると、それぞれ全ての判例に「×」が出来るかといえば、それは厳しい。
私の場合、この「最高裁判所裁判官国民審査」に関しては「冤罪」「司法」という視点でいつも見ています。
今年は袴田事件に関して、静岡地裁が再審開始と死刑及び拘置の執行停止を決定しましたが、ここに至る迄にも、最高裁は上告を棄却(1980年11月と2008年3月)、判決訂正申立棄却決定送達(1980年12月)をし、死刑確定となっている訳です。
名張毒ぶどう酒事件はそのままです。寝たきりの奥西さんは2014年4月に、生きている死刑囚で日本最高齢になったそうです。こちらも2013年10月、最高裁判所第1小法廷で、名古屋高等裁判所の再審取り消し決定を支持して、特別抗告を棄却しています。
基本的に冤罪と認められるケースというのは非常に少ない。大半は棄却して、そのまま本人が亡くなるまで拘置させておくわけです。上告が認められること自体少ないのは、下手に認めてしまうと、過去の判例を否定することになってしまう。そんな判例は自分の代では出したくないのです。例え「おかしいなぁ」と思っても、自分が裁判官でいる間には結論は出さずに、ひとまず棄却して先送り。その内高齢もしくは体調不良で亡くなってくれますから。
これらの事件はまだ一部には知られていて、そのために一緒に争ってくれる、支えてくれる人たちがいますが、世の中にはほとんど知られていない冤罪も多々あると思います。
それらの全てが裁判所の責任とは思わないですが、基本スタンスとしては私たちも、裁判所も、「一度出たことに関しては怪しくてもなるべく自分では判断を下さず先送り」だと思います。
政策であれば、先送りしても経済が悪くなったり、会社だったら業績が悪化したり潰れたりする程度で済みますが、裁判に関しては「先送り」している限り拘置されっぱなしです。「死刑囚」であれば特に。
さて、そんな風に冤罪というテーマで考えると私はそれなりに最高裁判所裁判官の国民審査に関心はあっても、直接その裁判官が何かの関与をしていない限り、×はつけられません。
その間の経緯をずっと追ってきた訳でもなければ、それが必ずしもその裁判官一人の裁量によるものかどうかまでは分からないからです。
裁判官個人の判断に基づくものなのか、裁判所全体、司法全体に絡むものなのか、それは外にいる私には分かりません。
消極的承認も勿論ありですが。
よく選挙の時期になると、「白票」を投じる、「興味が無いから投票しない、という意志表示をしている」という意見を聞きます。この場合も「棄権」です。
ところで、今回の「最高裁判所裁判官国民審査」の「棄権」も全く同じでしょうか。
私は、分からないのだけれど、とりあえず選挙には行く、という意志を持っている方には、○か×か「棄権」かの3つの選択肢を持って欲しいな、と思います。
選挙での誰かに「意志を持って」投票することと、審査で裁判官を「○(実際には何も記入しない訳ですが)」することは、私の中では別なのです。
今回の選挙においても積極的に投票という行動を取られている方こそ、是非このわかりやすいけれど、わかりにくく、やりやすいけれど、やりにくい、「最高裁判所裁判官国民審査」という大切な場を、選挙と同じように関わって欲しいなと思います。
ということで、私もこれから行ってきます。